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伊豆の国市の歴史

日本の変革期に大きな影響を与えた地

日本歴史の転換地

伊豆の国市は日本の大きな変革期にその端緒となった地域で、関連する歴史遺産が残されています。
平安末期から鎌倉時代への変革、室町・戦国時代から天下統一への変動、そして江戸期から明治維新、時代が変わろうとした時、この地で何が起こったのかをご紹介していきます。

鎌倉時代

源頼朝の挙兵と鎌倉幕府成立

平治の乱(1160年)で源氏が敗れ、源頼朝が蛭ヶ小島(現在の伊豆の国市)へ配流されたことで歴史が動き始めます。当時14歳だった頼朝は、ここ伊豆の国で20年間の青年期を過ごします。頼朝の監視役はこの地域を治めていた北条時政でしたが、頼朝はその時政の娘・政子と結婚することで源氏の勢力を取り戻していきました。
1180年(治承4年)8月17日、源頼朝は挙兵し、韮山にある山木判官兼隆の屋敷への討ち入りが、武士の時代である鎌倉時代へと変わりゆく発端となりました。頼朝の挙兵とその後の多くの戦では、北条時政とその息子の義時が尽力し、鎌倉幕府の成立へとつながります。

鎌倉幕府執権北条氏の本拠地

伊豆の豪族であった北条氏は、源頼朝が征夷大将軍に任じられると有力な御家人としての地位を得て、さらなる権力集中を成し遂げ、やがては執権として幕府の実権を握って政務を執るに至りました。
伊豆の国市内には北条氏の館跡である「史跡 北条氏邸跡(円成寺跡)」、北条時政が源頼朝の奥州藤原氏征討戦勝を祈願して建立した「願成就院」、二代執権・北条義時が建立した「北條寺」など、北条氏ゆかりの場所があります。なお、願成就院が所蔵する運慶作の5体の仏像は国宝に指定されています。

戦国時代

戦国時代の幕開け

関東の戦国時代がはじまりを告げるのは、伊勢宗瑞(通称 北条早雲)による1493年(明応2年)の伊豆討ち入りとされています。
その35年前、将軍足利義政が関東を治める鎌倉公方として送り込んだ兄の足利政知は、鎌倉に入ることができず、伊豆国に御所を構えました。政知の死後、長男の茶々丸の後継を巡って混乱した伊豆の討ち入りを果たすことになりました。
この伊豆討ち入りによって大名でもない人物が、国を奪取して大名になるという前代未聞の下剋上がおこりました。
伊豆の国市内には、足利政知が館を構えたという「伝堀越御所跡」、北条早雲が東国支配の足がかりに築いた「韮山城跡」が残されています。

天下統一への小田原征伐

戦国時代幕開けの地となった伊豆国は、その終焉の舞台にもなりました。戦国大名となった北条早雲を祖とする北条氏(小田原北条氏)は、韮山城から小田原城へと居城を移し、北条五代と呼ばれる歴代当主の統治が百年に渡り、領域は関東の大半に広がりました。しかし、関白にまで上り詰めた豊臣秀吉による小田原征伐で、北条勢は兵の数で圧倒する豊臣勢に抵抗するも敗れます。
韮山城跡の周辺には豊臣勢が陣を敷いていた付城跡がいくつも残されており、韮山城跡からの眺望では当時の布陣に思いを馳せることができます。

江戸時代

日本産業革命の先駆け

幕末期、欧米の列強国はアジア各地を次々と支配下に置き、その手は日本にも及ぼうとしていました。列強諸国に対抗する軍事力整備は大きな課題で、韮山代官の江川太郎左衛門英龍(坦庵)をはじめとする蘭学に通じた官僚たちにより、近代的な軍事技術や制度の導入が図られ始めます。
外国船に搭載された飛距離の長い大砲は脅威で、当時の日本の技術では対抗できる大砲を製作することは困難でした。そこで、江川英龍は品川台場に設置することを目的に、西洋の技術を取り入れた反射炉を韮山に築きました。日本の産業革命は、西洋技術を取り入れようとしたこの時代から始まったといえます。
韮山反射炉は、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」を構成する資産の一つとして2015年(平成27年)に世界遺産に登録されました。

近代産業胎動の舞台

反射炉を築いた江川英龍は、兵士の携行食としてパンの効用に注目し、日本で初めてパンを焼いた人物として知られています。その功績を讃えて、日本のパン業界から「パン祖」と呼ばれているほどです。
また英龍は、日露和親条約締結交渉のため来日していたエフィム・プチャーチンの乗艦ディアナ号が沈没した際、乗員が帰国するための洋式船の造船責任者を務めました。この日本初の西洋式帆船はヘダ号と名付けられ、ロシア側へ引き渡されました。ヘダ号の建造は、洋式船建造技術の導入に大きな役割を果たし、日本の近代造船技術の礎を築くことになります。
江川英龍の数々の功績は、「江川邸」にある当時の書物や資料の展示からご覧いただけます。

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